インドの智慧と暮らし⑧ インドでは、人生そのものが修行である


初めてインドを訪れた頃、

私は修行という言葉に対して、

どこか特別なイメージを持っていました。

 

ヒマラヤの洞窟。

厳しい断食。

長時間の瞑想。

人里離れたアシュラム。

 

そうした非日常の中で行われるものが修行だと思っていたのです。

 

しかし長年インドに通う中で、

少しずつ気づいたことがあります。

 

それは、

インドの人々にとって修行とは、

特別な時間ではなく、

人生そのものだということです。

 

 

ヨガはマットの上だけでは終わらない

 

日本では、

ヨガというとスタジオやクラスを思い浮かべる方が多いかもしれません。

 

一時間のレッスン。

アーサナの練習。

呼吸法。

瞑想。

 

もちろんそれらも大切です。

 

しかしインドでは、

ヨガはマットの上だけで完結しません。

 

家族との関わり方。

仕事への向き合い方。

食事のいただき方。

他者への接し方。

困難との向き合い方。

 

そのすべてがヨガの実践です。

 

 

カルマヨガという生き方

 

『バガヴァッド・ギーター』には、

カルマヨガという教えがあります。

 

カルマとは行為。

 

ヨガとは統合。

 

つまり、

行為を通して真理へ近づく道です。

 

大切なのは、

何をしているかではありません。

 

どのような意識で行うかです。

 

掃除をすること。

料理をすること。

仕事をすること。

家族を支えること。

誰かを助けること。

 

それらすべてが、

カルマヨガになり得るのです。

 

 

問題もまた修行になる

 

人生には、

望まない出来事も起こります。

 

病気。

失敗。

人間関係の葛藤。

経済的困難。

喪失。

 

私たちはそれらを避けたいと思います。

 

しかしインド哲学では、

そうした出来事さえも学びとして捉えます。

 

なぜこの経験が訪れたのか。

 

私はここから何を学ぶのか。

 

人生は常に問いを投げかけています。

 

そしてその問いに向き合うこと自体が、

修行なのです。

 

 

 

リシケシで出会った人々

 

私がリシケシで出会った人々の中には、

決して裕福ではない人もたくさんいます。

 

家族を養うために朝から晩まで働く人。

 

小さなお店を切り盛りする人。

 

観光客を相手に働く人。

 

彼らの多くは、

単に聖典を学問として読んでいるわけではありません。

 

けれど、

与えられた役割を誠実に果たし、

日々を感謝と共に生きています。

 

その姿に触れるたび、

私はヨガ哲学とは知識ではなく、

生き方なのだと感じます。

 

 

人生は最高の師である

 

インドには、

 

「人生そのものがグルである」

 

という考え方があります。

 

グルとは、

闇を取り除き、

光へ導く存在です。

 

必ずしも人間の師だけを意味しません。

 

病気も。

 

失敗も。

 

別れも。

 

挫折も。

 

人生で起こるあらゆる出来事が、

私たちに何かを教えようとしています。

 

そう考えると、

人生に無駄な経験は一つもありません。

 

 

私がインドから学んだこと

 

長年インドへ通い続けてきて、

私が最も学んだことの一つがあります。

 

それは、

人生からヨガの叡智を切り離さないということです。

 

アーサナの練習だけがヨガの時間だけが学びではない。

 

クラスだけが学びではない。

 

人生そのものが学びであり、

日々の出来事そのものが成長の機会である。

 

その視点から見ると人生には何一つ無駄がないのです。

 

 

ヨガとは、

特別な場所で行う特別な行為ではありません。

 

どのような状況の中でも、

自分自身を見失わずに生きる智慧です。

 

そしてインドの人々は、

その智慧を日常の中で実践しながら生きています。

 

だからこそ私は、

リシケシへ帰るたびに、

ヨガの原点を思い出すのかもしれません。

 

 

RISHIKESH YOGASHALA

Yoga Wisdom

サティヤプレーマ