ヨガ哲学と現代社会 ― 私たちは、共にどう生きるのか ⑤ つながっているのに、なぜ私たちは孤独なのか


一人でいることと、孤独であることは、同じではありません。

 

誰にも会わず、静かに一人で過ごしていても、心が満たされていることがあります。

反対に、家族と暮らし、多くの人に囲まれ、仕事や地域の中に自分の居場所があるように見えても、深い孤独を抱えていることがあります。

 

現代の孤独は、目に見えにくいものです。

孤独な人が、必ずしも一人で暮らしているとは限りません。

毎日会社へ行き、周囲と会話をし、SNSで発信を続けながら、その内側では、

 

「本当の自分を知っている人は、誰もいない」

 

と感じていることがあります。

 

私たちは、かつてないほど多くの人とつながる手段を持つようになりました。

 

離れた場所にいる人とも、瞬時に言葉を交わせます。

誰かの日常や考えに、毎日のように触れることができます。

 

しかし、つながる手段が増えたことと、人が深くつながれるようになったことは、必ずしも同じではありません。

むしろ、つながりが常に可視化される時代だからこそ、自分だけが誰ともつながれていないように感じることもあります。

 

誰かの楽しそうな食事。

家族の団らん。

仕事での成功。

友人たちとの集まり。

 

画面の向こうに映る他人の人生は、自分の孤独を照らす鏡になることがあります。

けれど、孤独の原因をSNSだけに求めても、その本質には届きません。

現代の孤独は、もっと深く、社会のあり方そのものと関係しています。

 

 

関係が「役割」へと変わっていく社会

 

現代社会では、人と人との関係が、役割によって結ばれることが多くなりました。

 

会社では、上司と部下。

家庭では、夫と妻、親と子。

学校では、教師と生徒。

介護の場では、支える人と支えられる人。

 

もちろん、社会を成り立たせるために役割は必要です。

しかし、人間が役割だけで見られるようになると、その人自身の存在は見えにくくなります。

 

母親である前に、一人の人間であること。

介護者である前に、疲れも悲しみも抱える一人の人間であること。

働き手である前に、迷いや不安を持つ一人の人間であること。

 

そのことが忘れられたとき、人は多くの人に囲まれながら、孤独になります。

 

必要とされていても、理解されていない。

頼られていても、支えられていない。

毎日誰かのために働いていても、自分の心を語る場所がない。

 

このような孤独は、外からは見えません。

むしろ、責任感が強く、周囲を支えている人ほど、孤独を隠していることがあります。

 

「自分が弱音を吐いてはいけない」

「迷惑をかけてはいけない」

「自分のことは自分で解決しなければならない」

 

そうして、一人で抱え続けます。

 

 

自己責任という言葉が、人を孤立させるとき

 

現代社会では、「自立」が大切な価値として語られます。

自分の人生に責任を持つことは、確かに大切です。

しかし、自立が「誰にも頼らず、一人で生きること」と誤解されたとき、人は助けを求められなくなります。

 

困難に直面しても、

 

「自分の努力が足りないからだ」

 

「自分の選択が間違っていたからだ」

 

と考え、社会的な問題まで個人の責任として抱え込みます。

 

仕事と介護の両立。

子育ての孤立。

経済的な不安。

病気。

家庭内の問題。

高齢期の孤独。

 

これらは、一人の心の持ち方だけでは解決できない問題です。

それでも、苦しんでいる本人が、自分を責めてしまうことがあります。

 

孤独とは、ただ誰かがそばにいないことではありません。

 

助けを求めてもよいと思えないこと。

 

そして、助けを求めたときに、受け止めてもらえるという信頼を失っていることです。

 

人は、本来一人だけで完結する存在ではありません。

生まれた瞬間から、誰かに抱かれ、食べ物を与えられ、言葉を教えられ、無数のいのちに支えられて生きています。

 

それにもかかわらず、成長すると「一人で生きること」が成熟であるかのように考えてしまいます。

けれど、本当の自立とは、誰にも頼らないことではありません。

 

自分にできることと、できないことを知り、必要なときには支えを求め、また誰かを支えられることではないでしょうか。

 

 

ヨガ哲学が見る「分離」

 

ヨガ哲学では、私たちが苦しむ根本には、アヴィディヤーがあります。

アヴィディヤーは一般に「無知」と訳されますが、それは知識が足りないという意味だけではありません。

本来つながっているものを、分離したものとして見てしまうことです。

 

私と他者。

人間と自然。

心と身体。

個人と社会。

 

それらを完全に別のものだと考えるところから、分断が始まります。

 

「自分の苦しみは、自分だけの問題である」

「他人の痛みは、自分には関係がない」

「社会の中で生きていても、自分は一人である」

 

そのような感覚もまた、分離の意識から生まれます。

 

ヨガという言葉には、「結ぶ」「つなぐ」「統合する」という意味があります。

それは単に、心と身体を一つにするという意味ではありません。

私たちが本来、互いに切り離された存在ではないことを思い出す道でもあります。

 

一人の人の苦しみは、その人だけのものではありません。

家族の痛みは、家族全体に影響します。

職場で一人が疲弊すれば、周囲にもその影響が広がります。

地域で孤立する人が増えれば、その社会全体が不安定になります。

 

そして、人間が自然を傷つければ、その傷はやがて私たち自身へ戻ってきます。

個人の苦しみと、社会の問題と、地球の問題は、別々のものではありません。

 

すべてはつながっています。

 

サンガとは、同じ考えの人だけが集まる場所ではない

 

ヨガの伝統には、サンガという考え方があります。

サンガとは、共に学び、共に歩む共同体です。

 

しかし、それは単に仲の良い人たちが集まる場所ではありません。

同じ意見の人だけで安心するための集団でもありません。

 

一人では見えない自分の心を、他者との関係の中で見つめる場所。

困ったときに支えを求め、誰かが困っているときには手を差し伸べる場所。

違いを排除するのではなく、違いを持ったまま共に在ることを学ぶ場所です。

 

人と人が本当に出会うためには、効率だけでは足りません。

 

時間が必要です。

話を最後まで聞くこと。

すぐに答えを出さないこと。

相手の苦しみを、自分の価値観で判断しないこと。

沈黙の中に共にいること。

 

そのような時間は、数字では測れません。

成果として報告することも難しいでしょう。

 

けれど、人間が孤独から回復していくためには、そのような「役に立つかどうかでは測れない関わり」が必要です。

 

 

ヨガは、個人だけの救いではない

 

現代では、ヨガが自分自身を整えるためのものとして紹介されることが多くあります。

 

自分の心を落ち着かせること。

身体を健康にすること。

ストレスを減らすこと。

 

それらも、ヨガの大切な恩恵です。

しかし、ヨガの智慧は、本来そこで終わるものではありません。

 

自分の心が整ったなら、その静けさを、他者との関係へどう生かすのか。

自分が癒やされたなら、その経験を、苦しんでいる人や社会へどう還元するのか。

 

そこまで含めて、ヨガの実践です。

 

社会奉仕のヨガと呼ばれるカルマ・ヨガには、行為の結果を自分だけの利益として求めず、他者や社会のために行動するという智慧があります。

奉仕をサンスクリット語でセーヴァーと言います。英語のServiceの語源とも言われています。

 

セーヴァーとは、自分を犠牲にして誰かに尽くし続けることではありません。

自分と他者を切り離さず、共に生かされている存在として持ちつ持たれつ、行動することです。

 

誰かを支えることは、自分とは関係のない人を助けることではありません。

助け合いの循環の中で、共同体の一部を支えることです。

 

そして、当然、その共同体の中には、自分自身も含まれています。

 

 

Heal the Earthの原点

 

私、サティヤプレーマが2015年に設立したNPO法人ヒール・ジ・アース。

Heal the Earthという名前には、地球環境だけを癒やすという意味があるのではありません。

 

地球の痛みは、人間の痛みと切り離せない。

社会の分断は、個人の孤独と切り離せない。

人の心の傷は、家族、地域、教育、労働、自然環境と切り離せない。

 

そのような認識が、この活動の原点にあります。

 

一人の人が自分自身とのつながりを取り戻すこと。

人と人が、支配や依存ではなく、尊重の中でつながり直すこと。

人間が自然の一部であることを思い出すこと。

 

そのすべてが、Heal the Earthです。

 

地球を癒やすという言葉は、とても大きく聞こえるかもしれません。

けれど、その始まりは、目の前の一人の声を聞くことかもしれません。

 

孤独を抱えた人に、

 

「あなたは一人ではない」

 

と言葉で伝えるのでなく、語らずともその人のあるがままに寄り添うこと。

 

社会を変えるとは、制度だけを変えることではありません。

私たち一人ひとりが、他者をどのように見るかを変えることでもあります。

 

 

私たちは、共にどう生きるのか

 

孤独をなくすことは、すべての人がいつも誰かと一緒にいる社会をつくることではありません。

 

一人でいる自由も必要です。

静けさも必要です。

自分自身と向き合う時間も必要です。

 

大切なのは、一人でいることを自分で選べることと、孤立させられることを区別することです。

 

必要なときには、誰かに手を伸ばせること。

そして、自分もまたその手を受け取ることを躊躇わないこと。

 

人は、強いから誰かを支えられるのではありません。

自分もまた支えられて生きてきたことを知っているから、誰かに手を差し伸べることができます。

 

ヨガ哲学は、孤独を個人の弱さとして扱いません。

私たちが本来つながっていることを忘れたところに生まれる、分離の痛みとして見つめます。

 

だから孤独からの回復は、単に友人の数を増やすことではありません。

 

本当の気持ちを語れること。

弱さを見せても、価値を失わないと知ること。

助ける側と助けられる側を固定せず、互いに支え合えること。

 

そして、自分のいのちが、他者や社会や自然と深くつながっていることを思い出すことです。

 

現代社会は、私たちに自立することを求めます。

 

ヨガ哲学は、その先にある問いを差し出します。

 

私たちは、互いに支えられて生きていることを忘れずに、自立することができるでしょうか。

 

孤独の反対は、単に人がそばにいることではありません。

 

自分の存在が、この世界のどこかに受け止められていると感じられることです。

そして同時に、自分もまた、誰かの存在を受け止める一人であると知ることです。

 

私たちは、一人で完成するために生まれてきたのではありません。

 

違いを持つ者同士が出会い、支え合い、時に傷つきながらも、再びつながり直すことを学ぶために生きているのではないでしょうか。

 

 

Yoga Wisdomからの問い

 

あなたの周りに、役割ではなく、一人の人間として話せる相手はいるでしょうか。

 

そして今、あなたの身近な誰かが、言葉にできない孤独を抱えてはいないでしょうか。

 

私たちは、その孤独に対して、何ができるでしょうか。

 

 

 

RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom
サティヤプレーマ


ヨガの智慧を、もっと深く学びたい方へ

 

RISHIKESH YOGASHALAでは、Yoga Wisdomでお伝えしているヨガ哲学や瞑想、呼吸法、アーユルヴェーダなどを、インド・リシケシをはじめ、日本各地の講座でも体系的に学ぶことができます。

 

記事を通して興味を持たれた方は、ぜひ各コースもご覧ください。

 

 

▶ インドヨガ留学 RYT200コース

▶ インドヨガ留学 RYT500コース

 

▶ アーユルヴェーダコース

 

▶ ニュージーランドホームステイ RYT200コース

 

▶ 奄美大島ホリスティックヨガ RYT200コース

 

▶ 東京校 RYT200コース

▶ 東京校 RYT500コース

 

▶ ピラティス指導者養成コース 

 

▶ 継続教育講座(YACEP)