「幸せになってね。」
人生の節目で、私たちは何度もこの言葉を贈り、また贈られてきました。
進学するとき。
就職するとき。
結婚するとき。
子どもが生まれたとき。
その言葉には、相手を思う優しさが込められています。
しかし、その一方で、私は時々こんなことを考えます。
私たちは、「幸せ」とは何かを、本当に知っているのでしょうか。
現代社会では、幸せは「手に入れるもの」と考えられています。
理想の仕事に就くこと。
十分な収入を得ること。
結婚し、家庭を築くこと。
健康でいること。
旅行へ行くこと。
好きなことを仕事にすること。
もちろん、それらは人生を豊かにしてくれる大切な経験です。
けれど、その喜びは永遠には続きません。
憧れだった仕事も、やがて日常になります。
新しい家も、数年後には見慣れた風景になります。
欲しかった物も、時間が経てば特別ではなくなります。
すると私たちは、また次の幸せを探し始めます。
もっと収入があれば。
もっと自由があれば。
もっと評価されれば。
もっと健康であれば。
もっと若ければ。
「もっと」という言葉には終わりがありません。
だから現代人は、幸せを追いかけ続けながら、どこかで満たされない感覚を抱えています。
これは決して、私たちの意志が弱いからではありません。
幸福を外側に求める限り、その幸福は必ず失われるからです。
ヨガ哲学は、この現象を三千年以上も前から見つめていました。
そして、とても静かな問いを投げかけます。
「あなたが求めているものは、本当に幸福なのでしょうか。」
ヨガ哲学が目指すものは、「もっと幸せになること」ではありません。
サンスクリット語にはアーナンダ(Ānanda)という言葉があります。
日本語では「至福」と訳されることが多い言葉ですが、それは感情としての喜びではありません。
何かを手に入れたときの興奮でもなく、誰かに認められた安心感でもありません。
アーナンダとは、存在そのものが持つ、揺るぐことのない静かな充足です。
ヴェーダーンタ哲学では、人間の本質はサット・チット・アーナンダ(存在・純粋意識・至福)であると説かれます。
つまり、私たちは幸福になる存在ではなく、本来、幸福そのものなのです。
では、なぜその幸福を感じられないのでしょうか。
ヨガ哲学では、その原因をアヴィディヤー(Avidyā/無知)と呼びます。
ここでいう「無知」とは、知識が足りないという意味ではありません。
変化し続ける身体や肩書き、財産や人間関係を「本当の自分」だと思い込み、永遠に変わることのない自己を忘れてしまっている状態です。
だから人は失うことを恐れます。
若さを失うこと。
仕事を失うこと。
愛する人を失うこと。
社会的な立場を失うこと。
そして、それらを守るために、さらに「もっと」を求め続けます。
しかし、ヨガは新しい何かを手に入れるための教えではありません。
本来の自分を思い出すための智慧です。
呼吸を整え、身体を整え、瞑想によって心の波立ちを静めていくのは、新しい自分になるためではありません。
変化し続ける世界の奥にある、決して失われることのない自己に気づくためです。
ヨガ哲学では、その境地をサマーディ(Samādhi)と呼びます。
サマーディとは、単なる深い瞑想ではありません。
「私」という小さな個人意識を超え、自分の本質が宇宙の根源であるブラフマンと本来一つであること、あるいは純粋意識であるプルシャとして永遠不滅の存在であることを、知識ではなく体験として悟る境地です。
そこには、「もっと幸せになりたい」という願いはありません。
なぜなら、自分が探し続けていた幸福そのものが、自分自身の本質であったことに気づくからです。
現代社会は、「幸せを手に入れる方法」を教えてくれます。
ヨガ哲学は、まったく違う方向を指し示します。
「幸せを外に探し続けることを、いったん手放してみなさい。」
「幸福そのものである本来の自己を思い出しなさい。」
これこそが、ヨガが何千年にもわたって伝え続けてきた智慧なのです。
Yoga Wisdomからの問い
もし、幸福が未来で手に入れるものではなく、あなたの本質そのものだとしたら。
明日からの人生で、あなたは何を追いかけ、何を手放すでしょうか。
RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom
サティヤプレーマ
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