魂の原型と契約㉕ ヨガは、なぜ「知る」よりも「生きる」ことを大切にするのだろう ― 智慧は、人生の中で完成していく ―


ヨガを学び始めると、多くの新しい言葉に出会います。

 

カルマ。

ダルマ。

アートマン。

ブラフマン。

アヒムサー。

サティヤ。

ヴェーダーンタ。

 

最初は、その意味を理解しようと、一生懸命本を読み、講義を聞きます。

 

それは、とても大切な学びです。

 

しかし、インドでは昔から、智慧は「知識」とは区別されてきました。

 

サンスクリットにはジュニャーナ(Jñāna)という言葉があります。

 

一般には「智慧」と訳されますが、それは単に知識が豊富であることではありません。

 

人生を通して体験し、自分自身の在り方となった理解のことです。

 

例えば、「怒ってはいけない」と知っていることと、本当に怒りに飲み込まれなくなることは違います。

 

「人を大切にしましょう」と学ぶことと、目の前の人を自然に思いやれることも違います。

 

知識は頭に蓄えられます。

 

智慧は、生き方として現れます。

 

だからヨガ哲学では、知識を得ることをゴールにはしません。

 

日々の暮らしの中で、その教えを生きることを大切にします。

 

『バガヴァッド・ギーター』には、行為・知識・献身という三つの道が説かれています。

 

どれか一つだけが優れているのではありません。

 

学び、実践し、心を育てる。

 

その三つが調和した時、人は少しずつ本来の自己へ近づいていくのです。

 

だから、ヨガは道場やスタジオだけにあるものではありません。

 

家族との会話の中にもあります。

仕事の中にもあります。

思い通りにならない出来事の中にもあります。

誰かを許せず苦しんでいる時にもあります。

 

その一つひとつが、智慧を生きる機会なのです。

 

長年インドで学び、多くの先生方と出会う中で、深く心に残っていることがあります。

 

本当に深い智慧を持つ先生ほど、自分の知識を誇りません。

 

難しい言葉を並べることもありません。

 

むしろ、その人の静かな眼差しや、何気ない振る舞いの中に、その学びが自然と現れています。

 

その姿を見るたびに、「智慧とは、語るものではなく、生きるものなのだ」と感じてきました。

 

だから私は、ヨガ哲学を学ぶたびに、自分へ問いかけます。

 

「私は、この教えを知っているだろうか。」

 

ではありません。

 

「私は、この教えを生きているだろうか。」

 

という問いです。

 

その問いに、毎日完璧に答えることはできません。

 

迷う日もあります。

失敗する日もあります。

 

けれど、そのたびに学び直し、また歩き始める。

 

それもまた、ヨガなのだと思います。

 

知識は、一冊の本を読めば得られるかもしれません。

 

しかし、智慧は、一生をかけて育まれていきます。

 

だから人生そのものが、私たちにとって最も大きな師なのかもしれません。

 

 

RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom

 

サティヤプレーマ