『ヨーガ・スートラ』を学び始めると、最初に出会う実践があります。
それがヤマ(Yama)です。
ヤマとは、人と共に生きるための土台となる生き方です。
その第一に置かれているのが、
アヒムサー(Ahiṃsā)
日本語では「非暴力」と訳されます。
けれど、この言葉を「暴力を振るわないこと」だけと理解してしまうと、本来の意味は十分に伝わりません。
アヒムサーとは、
「あらゆる生命を傷つけないように生きようとする姿勢」
です。
もちろん、それは身体的な暴力だけではありません。
言葉があります。
態度があります。
無関心があります。
私たちは気づかないうちに、人を傷つけてしまうことがあります。
反対に、たった一つの優しい言葉が、その人の人生を支えることもあります。
だからアヒムサーとは、
「何をしてはいけないか」
という戒めではなく、
「どう在りたいのか」
という、生き方そのものなのです。
そして、ヨガ哲学には、もう一つ大切な言葉があります。
カルナー(Karuṇā)
慈悲です。
慈悲とは、相手をかわいそうだと思うことではありません。
相手の苦しみに心を寄せ、
「その苦しみが少しでも和らぎますように」
と願う心です。
だから慈悲には、上下関係がありません。
助ける人と、助けられる人という区別もありません。
生命が生命を思う、ごく自然な心の働きです。
『ヨーガ・スートラ』第一章第三十三節では、
心を穏やかに保つための四つの実践が説かれています。
喜んでいる人にはマイトリー(友情・慈愛)を。
苦しんでいる人にはカルナー(慈悲)を。
善い行いをする人にはムディター(共に喜ぶ心)を。
好ましくない行いを見る時にはウペークシャー(平静・手放す智慧)を。
この四つは、単なる道徳ではありません。
心を静め、本来の自己へ近づくためのヨガの実践です。
私は、この教えに触れた時、とても深く納得しました。
アヒムサーも。
カルナーも。
マイトリーも。
すべては、「人に優しくしなさい」という話ではありません。
本来、私たちは分離した存在ではない。
だからこそ、相手を傷つけることは、自分自身を傷つけることでもある。
その真実を思い出すための実践なのだと感じたのです。
だからヨガ哲学は、何千年もの間、技術よりも人格を大切にしてきました。
どれほど難しいアーサナができても、
どれほど深い瞑想体験があっても、
日常の中で思いやりを失ってしまえば、それはヨガの完成ではありません。
反対に、派手なことは何もできなくても、
今日、目の前の一人を大切にできるなら、
その瞬間にもヨガは生きています。
ヨガとは、スタジオの中だけにあるものではありません。
日々の暮らしの中で、
どのような言葉を選ぶのか。
どのような眼差しで人を見るのか。
どのような心で生命と向き合うのか。
その一つひとつが、ヨガなのです。
そして、その積み重ねの先に、
私たちは少しずつ「ワンネス」という智慧を体験していくのでしょう。
RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom
サティヤプレーマ
