幼い頃、不思議に思っていました。
人は、本当は優しい存在なのに、どうして人を傷つけてしまうのだろう。
本当は愛し合いたいはずなのに、どうして争いが生まれるのだろう。
本当は一人では生きられないのに、どうして孤独になってしまうのだろう。
その問いは、大人になってからも、心の奥に残り続けていました。
ヨガ哲学を学ぶ中で、その問いに対する一つの考え方に出会います。
それは、人は本来の自己を忘れている、という教えです。
ヴェーダーンタでは、本来の自己をアートマンと呼びます。
それは、生まれることも、死ぬこともない、永遠の存在です。
けれど私たちは、いつの間にか身体を「私」だと思い、感情を「私」だと思い、肩書きや役割を「私」だと思うようになります。
その結果、比較が生まれます。
競争が生まれます。
恐れが生まれます。
そして、「私」と「あなた」という分離が強くなっていきます。
ヨガ哲学では、この状態を無知(アヴィディヤー)と呼びます。
無知といっても、知識がないという意味ではありません。
本来の自己を忘れてしまった状態のことです。
だからヨガとは、新しい何かを身につけることではありません。
本来の自分を思い出していく道なのです。
私は、この教えに触れた時、「だからだったのか」と感じました。
幼い頃から感じていた、世界全体を少し離れたところから見つめているような感覚。
人生は成功や失敗だけでは語れないという感覚。
人と人は、本当はもっと深いところでつながっているという感覚。
それらが、ヨガ哲学によって一つの智慧として結びついていったのです。
だから人生で起こる出来事は、私にとって「罰」ではありません。
「偶然」でもありません。
一つひとつが、本来の自分を思い出すための機会なのだと感じています。
誰かとの出会いも。
別れも。
成功も。
失敗も。
喜びも。
悲しみも。
そのすべてが、「あなたは本当は誰なのですか」と静かに問いかけているように思えるのです。
もちろん、その答えは頭で理解するだけでは見つかりません。
日々の暮らしの中で。
人との関わりの中で。
迷いながら。
立ち止まりながら。
そして何度でも、自分の中にある善性や誠意、慈悲、愛を選び続ける中で、少しずつ思い出していくものなのでしょう。
だから私は、人生とは「何かになる旅」ではなく、「本来の自分を思い出していく旅」なのだと感じています。
私たちは、新しいものを探し続けているようで、本当は最初から持っていたものを思い出そうとしているのかもしれません。
それが、ヨガ哲学が何千年にもわたって伝え続けてきた智慧であり、私自身が人生を通して少しずつ確信してきたことでもあります。
RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom
サティヤプレーマ
