幼い頃から、不思議な感覚がありました。
幼稚園で友達と遊んでいる時も。
先生と話している時も。
確かにその場にいるのですが、同時に、その光景全体を少し離れたところから静かに見つめている自分がいました。
まるで映画館のスクリーンを眺めているような感覚です。
そこに参加しているようでいて、どこか参加していない。
時間だけがゆっくりと止まっているような、不思議な静けさがありました。
そのためでしょうか。
周囲からは、
「ぼんやりしている。」
「物思いにふけっている。」
そんなふうに見られることも少なくありませんでした。
けれど、自分の中では違いました。
ぼんやりしていたのではありません。
ただ、世界そのものを静かに眺めていたのです。
当時は、その感覚を説明する言葉を知りませんでした。
けれど一つだけ、自然に感じていたことがあります。
人生は、目の前で起きている出来事だけがすべてではない。
もっと大きな生命の流れの中で、一人ひとりが生かされている。
そんな感覚でした。
だからでしょうか。
人生を成功や失敗という尺度で見たことは、ほとんどありませんでした。
どのような状況に置かれたとしても、
どれだけ困難な出来事が起こったとしても、
自分の中にある善性や誠意、真心、愛を失わずに生きること。
それだけが、幼い頃から変わらない信念でした。
そのため、人の思いやりに欠ける言葉や行動に触れると、自分のこと以上に深く心を痛めることもありました。
相手を責めたいというより、
「なぜ、そのような言葉になってしまうのだろう。」
そんな悲しさの方が大きかったように思います。
その後、ヨガと出会い、インドでヴェーダーンタやヨガ哲学を学び始めた時、私は何度も驚かされました。
新しい世界を知ったというよりも、幼い頃から言葉にならなかった感覚が、古代の智慧によって一つひとつ丁寧に整理されていったのです。
ヴェーダーンタは、人間の本質をアートマンと呼びます。
そして、そのアートマンは、宇宙の根源であるブラフマンと本質的には一つであると説きます。
その教えを象徴する言葉が、
「タット・トヴァム・アシ(Tat Tvam Asi)」
――「汝、それなり」です。
また、『ヨーガ・スートラ』には、
「ヨーガとは、心の働きを静めることである。」
とあります。
心の波が静まった時、人は本来の自己に安住すると説かれています。
これらの教えに触れた時、
「なるほど、だからだったのか。」
そんな感覚がありました。
ヨガ哲学は、私に新しい人生観を与えたのではありません。
幼い頃から感じ続けてきた世界の見え方を、何千年も前から受け継がれてきた智慧として、静かに言語化してくれたのです。
だから私にとってヨガとは、何か特別なものを身につけるための道ではありません。
本来の自分を思い出していく道です。
そして、その「本来の自分」とは、小さな個人としての「私」ではなく、時間や空間、人と自分という境界を超えた、大きな生命そのものなのではないかと感じています。
だからこそ、人生は競争ではありません。
比較でもありません。
魂が少しずつ分離という幻想を手放し、本来一つであった生命を思い出していく旅なのだと思うのです。
その旅を続けるほど、人は自然に優しくなります。
誰かに勝つことよりも、共に生きることを願うようになります。
責めることよりも、理解しようとします。
そして、「愛する」ということが、努力ではなく、ごく自然な在り方になっていきます。
私は、その歩みこそが、魂の成熟なのだと感じています。
そして、その成熟の先にあるものこそ、ヨガ哲学が何千年も伝え続けてきた「愛」なのかもしれません。
次回は、このシリーズの締めくくりとして、
「愛とは何だろう――魂が最後に思い出すもの」
について、一緒に考えてみたいと思います。
RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom
サティヤプレーマ
