人生には、避けることのできない試練があります。
思いがけない別れ。
裏切り。
病気。
失敗。
大切なものを失う経験。
誰も望んで苦しみたいとは思いません。
それでも人生を長い時間軸で振り返ると、その出来事が人生の方向を変え、自分自身を育てていたと気づくことがあります。
古くから日本には、
「苦労は買ってでもしろ。」
「石の上にも三年。」
「実るほど頭を垂れる稲穂かな。」
という言葉があります。
これらは、苦しむこと自体を美徳としているのではありません。
困難を通して人格を磨き、人として成熟していくことの大切さを伝えているのだと思います。
幼い頃から、そのような言葉を親から自然に聞きながら育ったこともあり、人生に試練が訪れるたび、心に浮かぶ問いは、いつも同じでした。
「なぜ、この出来事が起きたのだろう。」
ではありません。
「この出来事を通して、私は何を学ぼうとしているのだろう。」
という問いです。
そして、もう一つ。
「宇宙は、どのような計画をもって、この出来事を私に届けたのだろう。」
という問いです。
もちろん、その答えは、その場ですぐに分かるものではありません。
何年も経ってから。
時には何十年という歳月を経て。
初めて「あの経験があったから、今の自分がある」と静かに頷けることがあります。
だから人生は、一つの出来事だけを切り取って判断できるものではないのでしょう。
一つの章だけでは、小説の結末が分からないのと同じように、魂の歩みもまた、壮大な物語の途中にあります。
私も30代半ばで、ヨガ哲学と出会い、インドで学びを深め、瞑想を重ねる中で、不思議な感覚を何度も覚えました。
新しい人生観を教えられたというよりも、幼い頃から心の奥で感じ続けてきたことを、古代インドの智慧が静かに裏づけていってくれたのです。
特に深く心に響いたのが、バガヴァッド・ギーター第二章四十八節の教えでした。
「成功にも失敗にも心を乱されず、平静を保って行為しなさい。それがヨーガである。」
クリシュナがアルジュナに伝えたのは、「勝ちなさい」という教えではありません。
「失敗してはいけない」という教えでもありませんでした。
どのような結果になろうとも、自らのダルマを誠実に生きること。
外側の評価ではなく、自分自身の在り方を大切にすること。
それこそがヨーガなのだと説いています。
この一節に触れた時、幼い頃から大切にしてきた思いが、そのまま言葉になったような感覚を覚えました。
人に裏切られたとしても、自分まで誠意を失わないこと。
理不尽な出来事に遭遇しても、自分まで憎しみに飲み込まれないこと。
どのような試練の中にあっても、善性や真心、愛を手放さないこと。
それこそが、人生を生きる意義ではないか。
ヨガ哲学との出会いは、その思いをより揺るぎない確信へと育ててくれました。
また、ヨーガ・スートラでは、アヒムサー(非暴力)、サティヤ(真実)、アパリグラハ(不貪)など、人としての在り方が繰り返し説かれています。
そこでも問われているのは、「何を成し遂げたか」ではありません。
「どのような心で生きたか」です。
そう考えると、魂の成熟とは、特別な能力を身につけることではありません。
神秘的な体験を重ねることでもありません。
知識を増やすことでもありません。
どのような試練の中にあっても、自分の善性を失わないこと。
誠意を失わないこと。
真心を失わないこと。
そして、愛することを諦めないこと。
それこそが、魂の成熟なのではないでしょうか。
もちろん、それは決して簡単なことではありません。
人は傷つきます。
迷います。
怒りも湧きます。
それでも、そのたびに立ち止まり、
「この出来事を通して、私は何を学ぼうとしているのだろう。」
そう問い続けることができたなら、苦しみは少しずつ「かけがえのない意味」へと変わっていきます。
人生とは、幸せか不幸かを競う場所ではありません。
魂の中にある善性や慈悲、誠意、愛を育てていくための学びの場なのです。
そのように人生を観るようになると、試練は恐れるものではなくなります。
もちろん、苦しみそのものが人生からなくなるわけではありません。
けれど、その出来事の奥には、まだ見えていない学びがあり、宇宙の大きな流れの中では、人生で体験する一つひとつの出来事が内なる魂を成熟へと導く機会なのかもしれません。
だから人生は、成功や失敗だけで測ることのできるものではありません。
どのような状況の中でも、自分の善性、誠意、真心、愛を保ち続けること。
それこそが、ヨーガの人生観であり、魂の成熟なのだと感じています。
RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom
サティヤプレーマ
