人には、大きく二つの学び方があるように思います。
一つは、答えを知ることで安心する人。
もう一つは、答えが出なくても問い続けることに喜びを感じる人です。
私は後者でした。
幼い頃から、「なぜ」という問いが尽きませんでした。
なぜ人は生きるのだろう。
なぜ苦しみがあるのだろう。
なぜ人は愛し合いながら傷つけ合うのだろう。
その頃の私は、ヨガも、インド哲学も知りませんでした。
ただ、答えのない問いを抱えながら、何十年も日記を書き続け、自分の心と対話していました。
その問いは、ヨガに出会っても終わりませんでした。
むしろ、ヨガによってさらに深くなっていったのです。
インドでヴェーダや『ウパニシャッド』を学び始めた時、私は驚きました。
そこには、私が幼い頃から問い続けてきたことと、まったく同じ問いが書かれていたからです。
「私は誰なのか。」
「この世界とは何なのか。」
「死とは終わりなのか。」
古代インドの賢者たちも、私たちと同じように人生に疑問を抱き、その答えを探していたのです。
しかし、一つだけ現代と大きく違うことがあります。
彼らは、考え続けただけではありませんでした。
深い瞑想を実践し、自らの意識を観察し、その体験を通して真理を確かめようとしました。
だから私は、ヴェーダや『ウパニシャッド』を読むたびに感じます。
これらは哲学書というよりも、探究の記録なのだと。
真理を頭で組み立てた理論ではありません。
人生を懸けて問い続けた人々の足跡です。
私は、この姿勢に深く共感します。
なぜなら、私自身も「信じたいから信じる」のではなく、「自分自身で確かめたい」という思いで歩んできたからです。
四十回を超える渡印も、その一つでした。
聖典を学び、瞑想を重ね、多くの師と対話し、自分自身の人生を何度も振り返る。
その積み重ねの中で、少しずつ自分なりの理解が育っていきました。
探究者という魂の原型を持つ人は、知識を集めることが目的ではありません。
真理に近づくことを願っています。
だから、分からないことを恐れません。
むしろ、「分からない」という状態を大切にします。
ヨガには、「ネーティ・ネーティ(Neti Neti)」という教えがあります。
「これは私ではない。」
「これでもない。」
そうやって、一つひとつ思い込みを手放していくことで、本質へ近づいていく智慧です。
私は、この教えに探究者の魂を見るのです。
答えを積み重ねるのではなく、不要なものを手放していく。
その先に、静かに真理が姿を現す。
探究者という魂の原型を持つ人は、ときに周囲から理解されにくいかもしれません。
効率や結果を求める社会では、「まだ答えが出ないの?」と言われることもあるでしょう。
けれど、本当の探究には時間が必要です。
芽が出るまで土の中で育つ種のように、見えない時間があるからこそ、深い智慧が育まれていきます。
そして、探究者にはもう一つの特徴があります。
それは、真理を自分だけのものにしようとしないことです。
自分が見つけた智慧を、次の世代へ静かに手渡していく。
古代インドの賢者たちがそうであったように。
私もまた、その一人でありたいと願っています。
だからYoga Wisdomを書いています。
答えを与えるためではありません。
皆さんが、それぞれの人生を通して、自分自身の真理を探究していく、その小さなきっかけになれたらと願っているのです。
そして、探究する人がいる一方で、「自分のため」よりも「誰かのため」に生きることへ深い喜びを感じる魂があります。
次回は、「奉仕者」という魂の原型について、カルマ・ヨガの智慧とともに探究していきたいと思います。
RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom
サティヤプレーマ
