子どもの頃から、私にはひとつの願いがありました。
愛に正直に生きること。
誠実であること。
それは誰かに教えられたものではありません。
親から言われたわけでもなく、学校で学んだわけでもありません。
ただ、それが私にとって最も自然な在り方でした。
だから私は、人を傷つけることが苦手でした。
誰かが悲しむ姿を見るのも苦手でした。
できることなら、みんなが幸せでいてほしい。
みんなが笑顔でいてほしい。
そんなことを本気で願っている子どもでした。
しかし成長するにつれ、私は大きな違和感を抱くようになります。
なぜ人は人を傷つけるのだろう。
なぜ争うのだろう。
なぜ嘘をつくのだろう。
なぜ利用しようとするのだろう。
本当は誰もが幸せになりたいはずなのに。
本当は誰もが愛を求めているはずなのに。
なぜそんな行動を選んでしまうのだろう。
それが私には理解できませんでした。
家族の中でも。
学校でも。
友人関係の中でも。
私はいつも、その問いを抱えていました。
そしてもう一つ、不思議な感覚がありました。
私は人を観察していたわけではありません。
むしろ、自分自身も含めた人間たちの姿を、どこか少し離れた場所から見ているような感覚でした。
父の気持ち。
母の気持ち。
兄や妹の気持ち。
学校の先生の気持ち。
友達の気持ち。
本人さえ気づいていないような悲しみや寂しさまで、なぜか伝わってくるのです。
だから私は、人を嫌いになれませんでした。
怒りの奥にある悲しみが見えてしまうからです。
けれど同時に、とても傷つきやすくもありました。
人の何気ない一言。
ふとした表情。
目線。
態度。
その奥にある感情まで感じてしまう。
そして部屋に閉じこもり、一人で泣くことも少なくありませんでした。
食事が喉を通らなくなることもありました。
身体も弱く、精神的にも繊細でした。
学校では、先生から好かれることもあれば、扱いづらい子どもとして距離を置かれることもありました。
家族や親戚の中でも、少し変わった子として見られていたように思います。
けれど私は、人を変えたいと思ったことはありませんでした。
世界を変えたいと思ったこともありませんでした。
もちろん、人々が幸せであってほしいという願いはありました。
しかし私の関心は、いつも自分自身に向いていました。
この混沌とした世界の中で、
私はどこまで愛に正直でいられるだろう。
どこまで誠実でいられるだろう。
どこまで恐れではなく愛を選択できるだろう。
どこまで成長できるだろう。
極端に言えば、私の関心はただその一点にありました。
だから私は問い続けたのです。
なぜこの出来事は起きたのか。
なぜこの人と出会ったのか。
この経験は私に何を教えようとしているのか。
私は人を裁きたかったのではありません。
人生を理解したかったのです。
人を理解したかったのです。
そして、この世界で生きることの意味を理解したかったのです。
振り返れば、それが私の探究の始まりでした。
そしてその問いが、後にヨガ哲学との出会いへと繋がっていくことになります。
RISHIKESH YOGASHALA
Yoga Wisdom
サティヤプレーマ
