卒業生の声 <卒業エッセイ>


「ヨガに生きる」とは?

 

”ヨガとは何か?”と聞かれたら、それは神聖な愛(プラーナ)に包まれていることに気づくことでだと、今はそう答える。

そこには、深い許しと絶えることがないであろう、くつろぎがあった。

それは、お金も道具も必要なかった。

 

以前は、くつろぐために、四苦八苦した。お金がつきまとうことにうんざりして、結局、くつろげなかった。そればかりか、疑問ばかりになった。

 

それがきっかけで、ヨガに没頭することになったが、それを教えてくれたの存在(神聖な愛)に今度は自分がなりたい。

 

そう思っている一方で、神聖な愛に包まれていることを一瞬で忘れる。

忘れないようにルドラクシャマーラーを身に付けていたが、授業でルドラクシャマーラーの「場が神聖になる」という話を聞いて、なんで申請になるのだろうと思っていたことが、今、このエッセイを書いて納得した。

 

ルドラクシャマーラーといえば、自分の中で流行っている遊びがある。

 

無知から知への歩みは、すんなり、理解に至ったものもあるが、大半は摩擦を起こした。自分の中に間違った情報があったからである。

 

そして、その間違えた情報を書き換えることが疎ましくて、わざとルドラクシャマーラーを外して、どうでもいい場所に置きっぱなしにするのだが、毎日、気になって何にかして、その置かれたルドラクシャマーラを見て、渋々、降参するのですが、そんな自分で笑うという遊びです。

 

まさか、このような一人遊びをするようになるとは想像もつかなった。

この遊びは、まだまだ終わりそうにないが、(書き換え事項が山ほどある)、腹の底から求めているような気もする。一人で笑ったとき、深い許しを計り知れない愛を感じるかもしれないと思っています。

 

他の人にもこの遊びを伝えたいけれど、一般的ではないようなので、愛やプラーナという言葉を直接使えるプラーナヤーマやチャクラというところからなら、徐々にお伝え出来るかもしれないと思っています。

 

それらは、もうすでに広まっているが、アーサナ(肉体の健全化)が抜けた状態で広まっている。一方で、それらを含まず、アーサナだけも広まっている。

 

だから、スピリチュアルも、肉体の健全も伝えられる仕事が出来るようになることが夢です。

 

私の場合、ヨガに生きる=仕事(任務)だと思っているのですが、仕事になる前に勉強で今生が終わるでしょうけれども、神聖な愛で包まれていることを知る遊びが流行る一助になりますように。

 

今回のTTのプラクティスで、脊柱の隅々まで、浄化が図られていましたが、痛すぎて衝撃的で、さすがに、”やり過ぎだろう!”と思っていたのですが、先週、クシャール先生が肩関節外しを試みて下さった際、胸椎のどこかに感情と結びついている何か(ネガティブな)があることに気づいて、脊柱の柔軟(真の健全)について、考えを改めました。

 

これは、帰国して、私も取り入れねば!と思いました。しかし、あのプラクティス(というかアジャストというか)は、痛すぎるので、どのように取り入れるか、アィディアに繋がるよう勉強しなおします。

 

ひとつすぐに出来ることは、真理先生が施して下さったヒーリングだと思っています。

 

深い許しと、計り知れない愛を注ぎ込んで下さり、有難うございました。

シャバアーサナとヒーリングを取り入れる、イメトレをしています。今の私にとってのヨガに生きる=仕事ですが、仕事をしながら、愛を包まれていることを最も体験出来るのは自分で、なんともわがままな任務を希望したな、と思います。

 

 

先生方への反省とともに。ナマステ。

 

追記:仕事という務めが終わったら、霊性にどっぷりつかれるアシュラムで余生を送って、ヨガを生きながら、この肉体をお返しできるよう、今から念を送り続けます。  2018.9.28 H. M

 


「ヨガに生きるということ」

 

日本、そしてこの世界は今、たくさんの物と情報に溢れていて、人は迷い、悩み、心を病み、当たり前を有難く感じられなくなり、他人と比べ、もっと欲しい、まだ足りない、私は不幸だという気持ちに駆られます。

今の状態よりも、過去への執着、、未来への不安を抱いてしまいます。

 

私が10年前にヨガに初めて出会ったとき、まさにその状態にあり、そして、10年経った今日まで、何度も心ここにあらず、自分という存在を見失いました。しかし、今回初めて、インドへ訪れ、人と触れ合い、街を歩き、多くのグルと出逢い、さまざまな新しい学びを得ました。

 

昔から、自分と意見の合わない人、苦手な環境、好きになれない父親を切り離すことでしか、自分の日常を保てませんでした。

嫌いな人との縁を切り、部活や仕事を辞め、父親とは二度と会わないと断言することで、自分を苦しみから、守ってきたつもりでした。

 

しかい、ここインドに来て、日本とは真逆ともいえる環境に私はすぐに馴染むことが出来ました。なぜなら、初めに教わった「すべての事柄は学びである)という言葉がストンと心に落ち着いたからです。

どんな環境にいて、どんな人といて、国や文化や習慣が違っても、その世界をどう見るかは、自分次第であり、今、隣にいる人のことを理解しようと努力もせず、興味のないものは、「死んでしまえ。消えてしまえ。」と切り捨て、たった一人のひととの信頼関係も築けずに、自立しすぎて孤独を生んだものこそが、日本の社会である。という先生の言葉が非常にしっくり来てしまいました。

 

そこに時間をかけずにして、人間どこに時間をかけるのか。時間が無駄という言葉をよく使ってしまいがちですが、ヨガを学ぶ者ととして、今この瞬間のすべてが学びであるとしたら、この世のすべてに有難う、と感謝出来る。そこまで広い心と視野をもった人こそが真のヨギであると思うのです。

 

ヨガに生きるということは、今ここに行き、この存在を知ろうと試み、そして、その周囲に広がる全てのものを愛し、尊ぶことであると思います。そこには、良いも悪いも、好きも嫌いもなく、ただ、そこに在り続け、すべての存在をかけがえのないものであると認識する努力をし続けることがヨガに生きるという実践であります。

 

現代に生きる私は、ヨガのアーサナを知り、実践してもなお、その本質を学ばず、恐れ、生活に生かさない時、再び苦悩を味わいます。

しかし、本来、苦悩など決してなく、あるのはここに存在しているという事実だけであることを、何度でも、思い起こし、無知だった私自身を責めることなく、笑って、これから先も生き続けたいと思います。

 

そして、必ず、その教えを周りにいる愛すべき人々に伝えていける人間になりたいです。2018.9.24 M.T

 

 


「ヨガに生きるということ」*工事中。他、過去卒業生の卒業エッセイを複数掲載予定です(6/19)

 

自分の人生を歩んでいくこと。

誰に依存することなく、自分自身の足で、”大地に力強く立ち、真っすぐ、歩いていくこと。自分で人生を切り開き、自身の真我に常に問いかけ、情報、周りの意見に惑わされず、魂のままに生きていくこと。

 

ときには、いろんなことが起こり、自分にとって、一見マイナスなことが起きても、そこから、何を学び、常に逆の視点から観ることが出来るように心を柔軟にしていたい。

 

ヨガの教えを何度も何度も、繰り返し、繰り返し行い、すぐに出来なくても、諦めることなく、日々実践をし続ける。

それに必要な書物を読み、そして、自分の身体と心でいろんなことを体験し、それを生きる知恵にしていく。

 

ヨガのプラクティス、プラーナヤーマ、シャットカルマ、マントラ、瞑想、自身のライフスタイルの中に出来る限り、実施し、心を鎮め、本当の自分を真っすぐに見つけていく。そして、常にものごとの真ん中の視点から観る、心のゆとり、大きさを身に付けていく。

 

そして、自分自身のこころ、